〇文日記

日付=文数で日記。

十八文日記

今日は、とあるスポーツ大会の関係者として働いた。

――というか、今も勤務中で、待機中にこれを書いている。

大きな大会で、数百人が参加している。

(「大きな大会」という言葉には「馬から落馬」的な語義の重複を感じるが、大会と銘打ちながら参加人数の少ない「小会」とでも呼んだほうがいいものもあるので、許されるはず。)

その数百の人たちは、各々数百の目的と数百の楽しみ(苦しみ?)をもって参加しているだろう。

スポーツ大会という“枠”の中で、参加選手は精神と身体を自由に行使する。

それはフィールドやルールといった“枠”があるからこそであり、その中で参加選手は安心して自由になれる。

(“枠”がなければ、一部の選手が自由を満喫し、大多数の選手は不自由を感じる結果となるだろう。)

大会関係者が支えるのは、その“枠”である。

大会関係者に自由はない。

大会という“枠”の部品だからだ。

設計図に従って大会という“枠”を作り、それを維持する“部品”となることが求められる存在。

今日の大会は大きいので、“部品”の数もそれにに比例して大きい。

自由を享受する人の数が増えれば増えるほど、不自由になる人の数も増えていく。

たくさんの自由は、たくさんの不自由の上に成り立っているのではないか?

そんなことを考えてしまう。

自由というものは万人に保障されるべき権利――そんな風に教わってきた。

だが、それは自由というものの性質上、不可能なことなのではないか―――?