十七文日記
誰かを好きになるとは、どのようなことか。
その人のことを考えただけで幸福感が胸に――それも“心”という曖昧な概念にではなく、心拍数や血圧の上昇する肉体的な胸に――宿る状態。
その人を見ただけで、その人の声を聴いただけで、その人の香りを嗅いだだけで、軽い性的快楽が胸に幸福感を与えてくれる状態。
そういう状態が、誰かを好きになるということに思える。
少し肉体的要素が強すぎるだろうか。
でも、僕が恋愛的な意味で誰かを好きになった時、僕の胸はそういった風になる。
いや、「なってしまう」というべきか。
相手の外見が重要な要因だが、それ以外にも、声や香り、立ち居振る舞い、話し方や話す内容……そういった諸々のことが積み重なって、いつの間にか逃れようもなく好きになってしまう。
つまり、胸の小さな心地よさが積み重なっていくことで、相手の存在と自分の幸福感がいつの間にか強く結びつけられてしまうのだ。
そうなったなら、相手が目の前にいなくても思い出しただけで、幸せな気持ちになれる。
そして、記憶よりも強固な快楽の源泉を求めて、姿を見たり、声を聴いたり、体へ触れたりしたくなる。
これは嗜好品への依存症に近いものがあるように思える。
依存症という言葉の響きはあまり良くないが、しかし、そのような病的な要素に近いものがなければ、どうして恋愛があれほどまでに人を虜にできるだろう。
むしろ、種を存続させる生殖行為を促すため、恋愛に依存するよう人間の体は作られていて、嗜好品はその依存メカニズムを利用しているのではないか。
そうだとすると、人を好きになるということと、お酒や煙草を嗜好することは、肉体的にはあまり違わないことになる。
仕事帰りに繁華街へ寄ってビールや煙草を味わいたいという欲求と、休日にデートをして恋愛の快楽を味わいたいという欲求は、「肉体的幸福への依存」という点で同じ……?
ということで、誰かを好きになるということは、人生に肉体的幸福のスパイスを効かせて生きがいを感じさせてくれることだが、同時に、嗜みの量に気をつけるべき嗜好品ともいえることだと結論したい。