〇文日記

日付=文数で日記。

十八文日記

今日は、とあるスポーツ大会の関係者として働いた。

――というか、今も勤務中で、待機中にこれを書いている。

大きな大会で、数百人が参加している。

(「大きな大会」という言葉には「馬から落馬」的な語義の重複を感じるが、大会と銘打ちながら参加人数の少ない「小会」とでも呼んだほうがいいものもあるので、許されるはず。)

その数百の人たちは、各々数百の目的と数百の楽しみ(苦しみ?)をもって参加しているだろう。

スポーツ大会という“枠”の中で、参加選手は精神と身体を自由に行使する。

それはフィールドやルールといった“枠”があるからこそであり、その中で参加選手は安心して自由になれる。

(“枠”がなければ、一部の選手が自由を満喫し、大多数の選手は不自由を感じる結果となるだろう。)

大会関係者が支えるのは、その“枠”である。

大会関係者に自由はない。

大会という“枠”の部品だからだ。

設計図に従って大会という“枠”を作り、それを維持する“部品”となることが求められる存在。

今日の大会は大きいので、“部品”の数もそれにに比例して大きい。

自由を享受する人の数が増えれば増えるほど、不自由になる人の数も増えていく。

たくさんの自由は、たくさんの不自由の上に成り立っているのではないか?

そんなことを考えてしまう。

自由というものは万人に保障されるべき権利――そんな風に教わってきた。

だが、それは自由というものの性質上、不可能なことなのではないか―――?

十七文日記

誰かを好きになるとは、どのようなことか。

その人のことを考えただけで幸福感が胸に――それも“心”という曖昧な概念にではなく、心拍数や血圧の上昇する肉体的な胸に――宿る状態。

その人を見ただけで、その人の声を聴いただけで、その人の香りを嗅いだだけで、軽い性的快楽が胸に幸福感を与えてくれる状態。

そういう状態が、誰かを好きになるということに思える。

少し肉体的要素が強すぎるだろうか。

でも、僕が恋愛的な意味で誰かを好きになった時、僕の胸はそういった風になる。

いや、「なってしまう」というべきか。

相手の外見が重要な要因だが、それ以外にも、声や香り、立ち居振る舞い、話し方や話す内容……そういった諸々のことが積み重なって、いつの間にか逃れようもなく好きになってしまう。

つまり、胸の小さな心地よさが積み重なっていくことで、相手の存在と自分の幸福感がいつの間にか強く結びつけられてしまうのだ。

そうなったなら、相手が目の前にいなくても思い出しただけで、幸せな気持ちになれる。

そして、記憶よりも強固な快楽の源泉を求めて、姿を見たり、声を聴いたり、体へ触れたりしたくなる。

これは嗜好品への依存症に近いものがあるように思える。

依存症という言葉の響きはあまり良くないが、しかし、そのような病的な要素に近いものがなければ、どうして恋愛があれほどまでに人を虜にできるだろう。

むしろ、種を存続させる生殖行為を促すため、恋愛に依存するよう人間の体は作られていて、嗜好品はその依存メカニズムを利用しているのではないか。

そうだとすると、人を好きになるということと、お酒や煙草を嗜好することは、肉体的にはあまり違わないことになる。

仕事帰りに繁華街へ寄ってビールや煙草を味わいたいという欲求と、休日にデートをして恋愛の快楽を味わいたいという欲求は、「肉体的幸福への依存」という点で同じ……?

ということで、誰かを好きになるということは、人生に肉体的幸福のスパイスを効かせて生きがいを感じさせてくれることだが、同時に、嗜みの量に気をつけるべき嗜好品ともいえることだと結論したい。

十六文日記

朝練。

学生の部活動特有の響き……そう思っていた。

水泳の朝練をしているプールがあると誘われて行ってみれば、アラウンド還暦――アラカン――のスイマーばかりの異空間がそこにあった。

朝6時から7時30分頃まで約一時間半の早朝練習。

冬季ならば、まだ夜明け前に始まり、練習中に夜が明ける時間帯。

学生の部活動ならば、参加選手はほぼ例外なく眠い顔をして、あくびでもしながらやってくるはず。

ところが、アラカンのスイマーたちは、ほぼ例外なくしゃっきりした顔でやってくる。

もしや……彼らにとって、これは朝練ではないのではないか?

ラカンの人たちにとって、これは通常の生活時間帯であり、通常の練習なのではないか?

年をとると人間は長時間眠っていられなくなり、夜遅く床に入っても、早朝目覚めてしまうという。

彼彼女たちにとって普通に起きて普通に練習に来たら、夜明け前だった……あり得べき話である。

とはいえ、アラカンであっても、冬の朝は寒いだろうし、暗い中を暖かく明るい家から外へ出るのがおっくなのは若い学生と変わらないはず。

そこにあるのは、誘惑を振り切り、己の弱さを乗り越える克己心。

スポーツを始めると、まず肉体が鍛えられていく。

そこからさらに鍛え続けていくと、いつしか精神が鍛えられていく。

困難な条件、苦しい課題へあえて挑んでいくスポーツ選手のハートは、学生の部活動だろうが、還暦のマスターズサークルだろうが変わらない――そう感じた朝だった。

十五文日記

先月、あれほど所在地域で猛威を振るっていた高度流行性ウィルス疾患――いわゆるインフルエンザ――に、不思議なほど職場では感染する者がいなかった。

しかし、ここにきて高度流行性ウィルス疾患や、そこまではいかずとも発熱消耗性疾患――いわゆる風邪――の感染が同時多発で発生した。

こういった疾患への感染確率は冬季にはかなり高いものとなるのであり、しかも二回目以降の感染確率が格段に低下する以上、初回感染が先延ばしになればなるほど、同時感染は起こりやすくなるだろうし、同時感染者の数が増える。

まだ発症していない同僚が、今この瞬間にも高熱で倒れていることもじゅうぶんにあり得る。

さいわい僕はまだ感染していない。

もしかしたら感染しているのかもしれないが、疾患と呼べるほどの症状には至っていない。

ここ数ヶ月の筋力トレーニングの成果だろうか。

腸内環境に気をつかった食生活のおかげだろうか。

もしかしたら結婚しておらず、子育ての苦労を負っていないからなのかもしれない。

昨日と今日あわせて三名の同僚が育児の疲労を原因としてインフルエンザや風邪に感染しており、やはり子供の有無が大きく関わっているのだろう。

親は、自らの命をすり潰して子に与えているように見える。

子は、知らず知らず親の命を削っているように見える。

放っておいてもいずれ失われる命ならば、愛する者へ―――。

愛はまるで高熱の疾患のように、愛を胸に宿した者の命を消耗させる。

さいわい――なのかどうか――僕はまだ愛に感染していない。

一文日記

今日、怒りに我を忘れそうになった時に、守るべき信頼関係が頭をよぎり、激怒の発作を寸前で押しとどめたので無為に引き下がることになってしまって、他者を攻撃できない自分の弱さを感じたが、守るべきものを守れたのだからそれは強さと評価してもいいのではないかと思い直した。